過去旅*神戸から

またリアル旅できるといいな

*三宮神社*

<御祭神> 瑞津姫命(たきつひめのみこと)


      交通安全・商売繁盛・知恵袋の神
      旧神戸村の氏神


<鎮座地> 神戸市中央区三宮町2丁目4-4

<御由緒>


三宮神社は 国際港都市神戸市の最も中心をなす繁華街に港を前にひかえて鎮座し、祭神として天照大神の御子である女神 瑞津姫命を祀り、交通の安全と商工業の繁栄を守り給う神として、また 知恵授けの神として、古来より一般崇敬篤い神社である。
創祀の年代は古くして極め難く古記録も欠けているが、神社には享保17年(1732年)の銘がある石鳥居と手水鉢や寛延元年(1748年)の銘がある石灯篭が存在している。
この地は以前 尼崎藩領であったため藩公が篤く信仰せられ、右の寛延の石灯篭は尼崎藩主の奉納になったものと伝えられている。


明治維新ごろまでは 神社の付近は山手まで一面田園に過ぎず、宮は その中に西国街道に沿うて丘を負い、うっそうと繁った森をなし、遠方からも よく望めて目標となっていた。
このころ神社の前にはアヤメを植え、花時には旅人の憩いの場所となり、西には須磨の前田邸のカキツバタが有名で、道中の雲助歌にも「咲いてしおれて また咲く花は 須磨の前田のかきつばた」と うたわれていたのに対して、東の三宮神社のアヤメも近在だけでなく 遠方の旅人にも親しまれたいた。


神社の境内には古くから清水のこんこんと湧き出る井戸があって、神戸の港へ出入りの船は必ず神社へ参拝して この水と汲み取って航海中の飲料水として用いるので大切がられていた。
どこでも古くからの船着場には良水があることが条件となっていたが、ここも そのひとつであった。
当社の神官は代々世襲であるが、現在の宮司の姓が清水氏であるのも先祖が この井戸の清水から命名されたのである。


御祭神は 宗像三女神の一人・水の神様である瑞津姫命。


慶応3年12月7日(1868年1月1日)、神社前の神戸の浦が海港され居留地が設定されることになって、その工事用に神社付近の丘を削って土を運ぶなどして昔の景観を失い、明治18年までは まだ数株の老松が残っていたが次第に周辺は開け、おいおい人家や商家が建ち並び、ついには 今日見るように異常な発展を遂げることになり、三宮の名は駅名や官公署や会社・銀行・商店街につけられて全国に知られるようになった。
神社は今 次の大東亜戦争による戦禍をうけ、また それに関する都市計画によって神域は狭められるのを余儀なきに至ったが、三方に大道路が通じる位置になったのを機会に境内の整備と本殿・拝殿・社務所の復興造営を意へ面目を一新 崇高なる唯一の信仰地となる。
境内に祀る末社の三宮稲荷と安高稲荷大明神は古くから霊験あらたかとして信仰され、各地からの信者の参詣を始め、京都・大阪方面から子孫二代三代にわたり今なお月参りをされる熱心な信者もあって、戦後いち早く篤志家の寄進によって復興されて いよいよ神徳が崇められている。

1732年(享保17年)に造られた手水鉢。

河原霊社。
境内には 寿永3年(1184年)に起こった源平一ノ谷合戦の折に生田の森に拠って堅い守りを固めていた平知盛公率いる平家軍に対し、勇敢にも先陣を切って切り込んでいった河原太郎高直と次郎盛直兄弟を祀る霊社も残されています。
もともと生田神社の馬場先のやや西に兄弟を祀る塚が築かれていましたが、神戸港の開港などで町並みが急速に変わるうちに その跡は失われてしまいました。
これを憂えた地元・三宮3丁目の有志の方々が1922年(大正11年)に河原兄弟社を建てて遺徳を顕彰していましたが、都市計画の影響で1958年(昭和33年)4月に少し北に遷されます。
1971年(昭和46年)12月に再び市街地整備のために三宮神社の境内に遷されたようです。

境内の南西には「神戸事件発生地碑」が建っています。


神戸事件は 1868年(慶応4年)1月11日に起きた岡山藩(備前藩)兵と外国兵との衝突事件で、維新直後の明治新政府が初めて直面した外交事件といわれています。
当時の神戸は戊辰戦争勃発直後に兵庫奉行・柴田日向守が早々に逃亡してしまったため、一時無政府状態に置かれていました。
1867年10月14日の大政奉還後も、徳川から明治への時代の動きは突如として変化したわけではなく、近畿においても徳川に味方する勢力は大きく、明治元年1月3日の鳥羽伏見の変など大きな争いがありました。
そんな中、新政府から徳川親藩の尼崎を抑えるために西宮の警備を任ぜられて西国街道を東上していた岡山藩兵が三宮神社の前に差し掛かったとき、居留地警備のために この地を赴任していたフランス兵やアメリカ兵たちが行列の前を横切ろうとしたため小競り合いが起きました。
制止しようとした岡山藩兵に その場に居合わせたイギリス兵が銃を向けたため、岡山藩兵が三門の大砲を率いて砲撃を開始。
これに外国兵が応戦し、神戸港沖に停泊していた軍艦からも応援の外国人陸戦部隊(当時 港には停泊中の米・英・仏・伊・和・普がいた)が上陸して居留地を制圧するという事態に発展します。
※アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・オランダ・プロシアまたはプロイセン=ドイツ


時折しも欧米列強における植民地政策が進められている時代、文化の違いから起きた不幸な衝突とはいえ、一歩間違えれば重大な外交問題になり兼ねない状況だったので、15日に東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)を勅使とする一行は明治天皇の宣言書を捧げて6ヶ国代表と神戸運上所(後の神戸税関)で会見し、天皇親政になっていることを外国に伝えました。
宣言書には国璽(こくじ、国家の印)が用いられました。
日本歴史上、国璽が外交に用いられたのは これが初めてです。
談判の結果、責任を一身に背負った砲兵隊長の滝善三郎正信が兵庫・永福寺の座敷において、国内外の士官が立ち会う中 見事 切腹して果てることで最悪の状況を回避、事態の収拾が図られることとなりました。


当時は 三宮事件と呼ばれていましたが、後に神戸事件と改められました。

「大砲」
明治元年1月11日(旧暦)に三宮神社前で突発して神戸事件のとき、外国兵との交戦に備前の藩兵は三門の大砲を率いて応戦した。
この大砲は年代的に ほぼ同時のものなので ここに据えて参考しています。

本殿裏側には「三宮稲荷大明神・安高稲荷大明神」が祀られいます。


※ 写真は 2009年8月3日のものです。