過去旅*神戸から

またリアル旅できるといいな

*A.源平史跡めぐルート*②

高速長田駅近くの銀行を右に入り、村野工業高校正門つきあたり左に曲がってすぐ左手に

監物太郎の碑


長田ビルと村野工業高校の間の路地を入ったところに、ひっそりとまつられている監物(けんもつ)太郎は、平知盛の家臣で、1184(寿永3)年、知盛の嫡男知章を救おうとして討ち死にしました。
この碑は地元の人達によって、大事に祀られています。

村野工業高校グランドフェンス沿いにあります。

源平勇士の碑


一の谷の合戦のとき、生田の森の大手を守っていた父の平知盛を助けようとして明泉寺の近くで戦死した知章(ともあきら)の碑を、もともとは明泉寺のほとりに塚印があったものを、孝子の墓は世の手本になるように人目につくところにということで、享保年間に西国街道筋にも建てたものです。
また、この付近で戦死したという平通盛(みちもり)や、源氏方の猪俣小平六、木村源三則綱、平通盛と戦って相討ちで死んだと言われていつ木村源吾重章の碑が敵味方仲良く建てられています。


山陽西代駅へと歩き、山下町4バス停 次の信号を渡って右へ、庄山地域福祉センター 次の角を左へ

平盛俊の墓

同じく平盛俊をまつった塚が名倉町にもありますが、どちらの場所が「盛俊最期の地」であるかは意見がわかれるところです。
「六七十人力」の豪傑ですが、気もやさしかった盛俊は、源氏の猪俣小平六則綱を簡単に簡単に組み伏せたものの、小平六の必死の命乞いを聞き入れてしまい、その間に駆けつけた敵兵に気を取られた隙に小平六に討たれてしまったのです。

撮影:2014年12月21日