過去旅*神戸から

またリアル旅できるといいな

*四宮神社*

<御祭神> 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)


      芸能の神、「花隈芸者の名付けの神」
      旧花隈村の氏神


<鎮座地> 神戸市中央区中山手通5丁目2-13

<御由緒>
創建年月は不明ですが、神功皇后が摂政元年2月の三韓征伐の帰途、ご神託により活田(生田)の神を長狭の国に お祀りせられる時に、同国八ヶ所に鎮座されている神々を東から順に巡拝された一社として「四の御前の神」と名付けをされたのであります。
ご祭神は天照皇大御神が素戔嗚尊と誓約をされた際に お産まれになった五男三女の一柱 市杵島姫命、七福神の一柱といわれている弁財天を お祀り申し上げております。
広島県の安芸の宮島の厳島神社とも関係があるようです。


その後、永禄年間 摂津の武将・荒木村重が織田信長の命令で花熊(隈)城を築くや、その鬼門鎮護の神に定められ、城主より幣帛が捧げられました。


天正8年7月2日 花熊(隈)城の落城により戦火を受けましたが、安政元年9月 現在地に移転・再建され、鬼門鎮護・福徳円満・文学芸能の唯一の神として、特に芸能人・文化人の崇敬が篤く、「花熊芸者の名付けの神」として有名でありました。


1902(明治38)年6月2日 当地一帯の大火で再び その災害を罹りましたが、同43年5月11日 再度 芸能人・文化人をはじめ当地の有力な崇敬者によって ご造営されました。
当神社前に兵庫県政を司る県庁が置かれ、初代知事 伊藤博文公も氏子に住まわれ、歴代知事の公舎も当神社氏子内に建てられ、県政守護の神様として県関係者からも崇敬され、1927(昭和2)年11月19日「村社に列せられ」兵庫県知事の幣帛料指定献上社として歴代県知事が例大祭に参列されるようになりました。


1945(昭和20)年6月5日の第二次世界大戦の空襲で その被害を受けましたが、1960(昭和35)年5月 当時の副知事 金井元彦氏により、復興奉賛会が結成され芸能人・文化人・兵庫県民・神戸市民・氏子崇敬者から浄財を募集、1963(昭和38)年5月10日に現社殿が ご造営されました。


境内の摂末社、三義稲荷神社は安政元年、八幡神社は安政2年、半減し560坪となりましたが、官公庁街の一角に朱塗りもあでやかな社殿は人々の「いこいの場」「心のふるさと」として その尊厳さを保っており、神戸市民より崇敬されています。

山手幹線に面して立つ鳥居の隣、高層マンションの一階が社務所です。

戦国時代の1574(天元2)年、石山本願寺と毛利氏との補給路を分断する大きな禊として織田信長公の命によって花隈城が大改修された際、四宮神社は城の鬼門鎮座の神と定められ城主・荒木村重公により幣帛が奉納されました。
その頃の花隈城は山手幹線辺りまで城域が広がっていたと伝えられており、荒木村重公の謀反を受けた織田軍の制圧戦によって花隈城が落城した際には兵火に巻き込まれたこともあったようです。

「弁財天芸能塚」
その昔 神戸では「花街」といえば福原ではなく花隈のことを指していました。
料亭やお茶屋さんが50軒以上立ち並び、多い時には1000人近くの芸妓さんがお座敷に彩を添え、客層も皇族から財芸人まで錚々たる顔ぶれだったそうです。
そんな花隈に鎮座する四宮神社は、芸能の神様・市杵島姫命を祀っていることもあり、花隈芸者は 一度は鑑札(営業許可書)を受けなければならなかったといわれており、「花隈芸者の名付けの神」として有名でした。


1984(昭和59)年4月に 弁財天崇敬会結成され、多くの方が浄財を受けて1年後の1985(昭和60)年4月に建立されたのが この弁財天芸能塚です。
毎年4月の第一土曜日もしくは日曜日には「芸能塚祭」が執り行われ、文化・芸能活動に打ち込んでいる方々から奉納された愛用の筆や扇や楽譜、鉛筆などを焚き上げて その長年の労をねぎらい、供養するという神事が行われています。

「弁財天巳大神」
ご本殿はご祭神である 市杵島姫命に仕え お護りしている白蛇を祀っている。

社殿前に鎮座する八幡神社。
1855(安政2)年に勧請されました。

奥には「武富稲荷大明神」「三義稲荷大明神」「白獄稲荷大明神」が祀られています。


※ 写真は 2009年8月6日のものです。