過去旅*神戸から

またリアル旅できるといいな

*神戸パールミュージアム*①


来館前に近くを散策

昼間はシロナリエの回廊


東遊園地


こうべ花時計


中央区誕生30周年、区の花 ペチュニア


神戸朝日ビルディングでは、


フェリシモ主催のハッピートイズプロジェクト


神戸パールミュージアムに戻って

一万粒の幻想的な輝き パールツリー
約10000粒の真珠で作られています。



1階がミュージアムになっています。


1.養殖真珠の誕生
「丸い真珠」が生まれるまで
三重県鳥羽に生まれた御木本幸吉氏は、海女が採取していた天然真珠に興味を持ち、「何とか人工的に養殖できないだろうか?」と考えました。
5年にわたる試行錯誤のすえ、1893年(明治26)、数個の殻付真珠の生産に成功。
貝殻の内側に貼りついた珠を採取するため半球形でしたが、真珠養殖の大きな一歩となりました。
さらに10年余り、幸吉氏の娘婿・西川藤吉、見瀬辰平氏らがこの技術に改良を重ね、1907年(明治40)に特許出願した「真珠形成法」によって真円アコヤ真珠の養殖が完成。
これが現在の真珠養殖の基礎となって、大正時代の初めから、あの「丸い真珠」の本格的な生産が始まりました。
1919年(大正8)、養殖の真円アコヤ真珠は、初めてロンドンで売りに出されました。
天然真珠より25%も安い価格は、現地の宝飾業者にとって大きなショックでした。
このため、はじめは「ニセモノではないか?」と疑いをかけられてしまいます。
結局、パリで行われた裁判で養殖真珠の品質が認められて、これをきっかけに、世界中にしられることとなりました。


2.真珠の街・神戸
神戸と真珠を結びつけたのは?
神戸の真珠加工の草分けと言われるのが、高知県の名士として知られた藤堂安家氏。
地元の「予土真珠」の大株主でしたが、大洪水で全財産を失って神戸に移住。
商売で失敗を繰り返すなかで思いついたのが、大量に放置されていたシミ付き真珠の加工でした。
1921年(大正10)、サンゴのシミ抜きに使われていた消毒薬のオキシフルで何通りもの実験を重ねた結果、シミが色褪せていくことが分かりました。
同時に染色の技法も研究し、2年後には会社を興すまでになります。
その後、各地の養殖業者もこの加工技術を求めて神戸に出店。
北野を中心に、真珠加工の会社ができ始めます。
昭和に入ると、外国商館を通じて海外の市場とつながる神戸に真珠が集まるようになって、流通の拠点として基礎を築いていきました。
後年、この技術で特許を取得しなかったことについて、藤堂氏は「自分だけでなく、みんなが栄えないといかん」と答えたそうです。
加工技術を世に広めた彼の思いが礎となって、神戸は”真珠の街”とよばれるようになったのです。



つづきます。