過去旅*神戸から

またリアル旅できるといいな

*富田砕花旧居*


「わが国の民主主義の先駆的詩人と呼ばれた人。
明治23年(1890)11月15日、岩手県盛岡市に生まれた。
本名 戒治郎
上京し、18歳で与謝野鉄幹、晶子主宰の新詩社に参加。
筆名 砕花で「明星」に短歌を発表した。


石川啄木に思想的な影響を受け、明治45年(1912)5月、啄木の死を悼み、歌誌「曠野」に「民衆の中に行く」”Going To People”というエッセイを発表している。
歌集「悲しき愛」を大正元年(1912)に出版、その前後からカーペンター、トロウベル、ホイットマンを日本に紹介。
訳詩集カーペンター「民主主義の方へ」(大正5年)、訳詩集ホイットマン「草の葉」(大正8年)、エッセイ「解放の芸術」(大正11年)等を出版した。


福田正夫主宰の詩誌「民衆」トロウベル号には、英文のエッセイを発表。
福田正夫・白鳥省吾・百田宗治らとともに民衆詩派の詩人と目された。


民衆誌派は、ホイットマンのデモクラシー精神を受け、平明な言葉で市井人・農民・土などをとりあげて、従来の詩の領域をひろげた。
富田砕花の詩はストイックな求道者の趣きがあり、表現は精緻である。


大正のはじめ、病気治療のため芦屋に転地。
田島マチを知り大正9年(1920)に結婚。
以後 芦屋に定住した。


詩作のかたわら全国各地を旅し、また多くの校歌、市町歌を作詞した。
その多彩な業績から”兵庫県文化の父”ともよばれた。
昭和23年(1948)第一回兵庫県文化賞を受賞。


著作は上記のほか、詩集「末日頌」(大正4年)、「地の子」(大正8年)、「『時代』の手」(大正11年)、「登高行」(大正13年)、「手招く者」(大正15年)、「歌風土記兵庫県」(昭和25年)、「ひこばえのうた」(昭和45年)、「兵庫讃歌」(昭和46年)、「視差錯落」(昭和50年)などがある。
昭和59年(1984)10月17日93歳で長逝後、すべての蔵書、遺品類が芦屋に寄贈されたのを機に「富田砕花顕彰会」が発足し、資料の整理を進めてきている。
(「富田砕花資料目録」第1集、書簡・葉書類<1990.3刊>、第2集、雑誌類<1992.3刊>、第3集、原稿類<1994.3刊>、第4集、書籍類<1997.3刊>)
昭和63年(1988)「富田砕花全詩集」が刊行され、「民衆の中に行く」当時と変わらない富田砕花の詩精神がようやく全貌を見せた。」


門をくぐって 庭の奥に


母屋


旧居内


「富田砕花旧居は、富田砕花が昭和14年5月から、昭和59年10月17日に93歳で亡くなるまで暮らした場所です。
また、昭和9年から11年には、谷崎潤一郎が三番目の妻、松子夫人とともに隠れ住んだ場所でもあります。」


「富田砕花は植物への愛情が深く、自宅の庭の草木や花を題材とした歌も多く残しています。
また、四季折々さまざまな草花が育つ富田砕花旧居の庭は、施設の大きな魅力でもあります。」


戦災で焼失したそうですが、友人たちの援助により再建されました。


展示室


敷地面積 333.88㎡
木造平屋   88.67㎡ (母屋・展示室・管理人室)


次は、「虚子記念文学館」です。