過去旅*神戸から

またリアル旅できるといいな

*B.北部・中部史跡めぐルート*②

福聚寺(ふくしゅうじ)


臨済宗、本尊は十一面観音。
1376(永和2)年に月菴(げったん)禅師の開基で、永禄年間に兵火で焼かれ、慶長年中に改修したといいます。
別名「長田の薬師」と呼ばれるいわれは、神仏混交のときには長田神社の神は薬師如来の本地といい神社の境内に薬師堂がありましたが、明治初年の神仏分離の際に、薬師如来を福聚寺に移したからです。
 長田神社の行事で有名な鬼追いの儀式(追儺式)も、もとはこの薬師堂で行われていたもので、市内の他の鬼追式はみな寺院で行われています。


長田神社


祭神は事代主尊(ことしろぬしのみこと)。
かつては旧神戸の西半分、須磨までの産土神(うぶすなかみ)でした。
神域はヘサキを北に向けた船の形をしています。
これは神功皇后の朝鮮出兵のおり、事代主尊が軍船を守ったという言い伝えによるものです。
明治のころ、境内に氏子から奉納されたニワトリが多数放し飼いにされていたので、外国人はこの神社を「チキンテンプル」と呼んでいたと言います。
節分の日の鬼追い(追儺式)、夏の夜を彩る薪能は有名です。


高速長田駅へと向かい、銀行の角を曲がる

監物太郎の碑


村野工業高校グランドフェンス沿いに


(↑↓ *A.源平史跡めぐルート*② - 過去旅*神戸から 既載)

源平勇士の碑


御船山旧跡
(↑↓ この2枚のみ 2020年11月3日撮影。当時、撮り忘れていました)

昔、「御船山(みふねやま)」という小高い丘があり、「神功皇后が船をつけたところ」とも、「長田の神を鎮座の時 船具を埋めたところ」とも伝えられていましたが、新湊川を苅藻川に合流させたときに堤防敷地としたため丘はなくなり、1902(明治35)年に「御船山旧蹟」の石標を建て、その由来の碑を裏面に漢文で記しています。


西に歩いて


蓮池跡

以前この辺りには「蓮の池」という大きな池がありました。
奈良時代に畿内を巡回していた行基が、農民が水不足に悩まされていることを知って、この地方の灌漑用水として築いたと言われています。
旧池田村と西代村に属し、実測面積では1万7400坪の大池だったとか。
池の南の堤に沿って西国街道が通じていて この池は旅の目印にもなり、「平家物語」や「太平記」などにも登場する、古くから有名な池でした。
大正末期から一部埋めたてが始まり、1931(昭和6)年に整地され、蓮池小学校やスポーツ施設が建ち、池は一新されました。
2007(平成19)年3月末完成の西代蓮池公園内に石碑が設置されています。


蓮池小学校の先を右へ曲がり、

常福寺(じょうふくじ)


旧西代では唯一の寺です。
真言宗、本尊は延命地蔵菩薩。
境内には古刹ゆえの興味深さがあります。
天平時代に僧行基が建立したと言われている蓮華寺に祀られていた卒塔婆10基が保存されており、行基が造った蓮池の、水が枯れた時の雨乞い祈願として池の樋の余材で刻んだと言われています。
 山内には、西国三十三所霊場になぞらえた観音石像が安置され、「観音山」という名前の謂れとなっています。
また、その勧進碑で「輪廻転生」石車輪のついたものは珍しい。
南北朝時代の宝篋印塔(ほうじょういんとう)が奉祀されています。
寺墓地には明治・大正の大阪相撲のスター力士の墓数基が存在しています。


平盛俊の墓


*A.源平史跡めぐルート*② - 過去旅*神戸から 既載)


五位の池バス停、ゴール。


撮影:2014年12月28日