過去旅*神戸から

またリアル旅できるといいな

*嵐山*過ぎ去りしロマンを訪ねて-小倉池・化野コース④

小倉池


この池に沿って 常寂光寺を目指すのですが、


反対側にある 御髪神社が気になり寄り道しました。


《祭神 従五位 藤原采女亮政之(うねめのすけまさゆき)公
亀山天皇の御代(1259-1274年)藤原基晴郷が宮中に宝物係として仕えていたが所轄の宝物を紛失した責任をとり深索の為 諸国を行脚し文永年間下関に居を構え三男政之公が生計を髪結職に求めたのが髪結業の始祖であった
髪塚
髪は人身の最上位にあって造化の神より賜った美しい自然の冠であると共に生前にも残し得る唯一の分身として大きな恩恵に感謝する為副神として納祭し祈拝される》


立札が読みにくかったので間違いがあるかもしれません。


日本唯一の髪の神社です。


常寂光寺


落柿舎(らくししゃ)


《ここは、蕉門十哲の一人として名高い向井去来(慶安4年(1651)~宝永元年(1704)の閑居の跡として知られている。
当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちに ほとんど落ちつくし、かねてを買約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。
これが落柿舎の名の由来である。
芭蕉も晩年、三度当庵を訪れ、名作「嵯峨日記」を著した。
庭には去来の詠んだ「柿主や梢はちかきあらし山」の句碑がある。
去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。
かつて武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであった。
その句「鴨なくや弓矢を捨てて十余年」は よく知られている。》


落柿舎に向かう途中で こんな立札もあったでの ついでに


《小倉餡発祥の由来
日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは、京都に於いて平安京ができて間もなくの820年頃のことであります
当時 京の このあたり小倉の里に亀の甲せんべいを作っている和三郎という人がいて、809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培して それに御所から下賜された砂糖を加え煮詰めて餡を作りました
これを毎年御所に献上しました
こうして菓子は極めて高価で珍しいものでありましたので、一般の庶民の口には入りませんでしたが、この和三郎の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の菓子となり又一方では祝飯としてハレの料理にも加えられるようになりました


更に空海は中国の亀の甲煎餅の技術も伝授し京菓子の技術は日本の和菓子の源流となりました


和三郎は承知7年2月2日(840年)になくなりましたが、その子孫並びに諸国同業の人々が その功績をたたえて小倉中字愛宕「ダイジョウ」の里に一社を建て朝廷の允許を得て屋号が亀屋和泉でありましたので和泉大明神としてまつられるようになりました


その後 年月を経て明神の社は兵火に焼かれ子孫も絶えて只古老の伝承として小倉の地に和泉大明神の社があったと伝えられています
津田左兵衛(六代)記》


二尊院総門


《小倉山と号し、天台宗山門派(延暦寺)に属する。
承知8年(841)嵯峨天皇の勅願によって慈覚大師が創建した。
本尊に釈迦如来、阿弥陀如来(重要文化財)の二尊を祀る。
長く荒れていたのを法然上人の高弟湛空が再興した。


境内は楓樹が多く、本道の後の山は、百人一首の「小倉山 峯のもみじ葉 心あらば 今一度の 御幸またなん」忠平の歌で名高い小倉山で昔から紅葉の名所として知られている。


また、大堰川開拓者 角倉了以や、儒者 伊藤仁斎、その子 東涯などの墓がある。
定家喞が百人一首を撰んだ時雨亭は、この小倉山の山腹にあったともいわれる。》


思い出博物館


《嵯峨野の道沿いにある思い出博物館では、ブリキのおもちゃやメンコ、マンガなど、明治から昭和にかけての懐かしい玩具を展示。
郷愁を誘う素朴な玩具は見ているだけで楽しく、年齢を問わず人気があります。》


道標に従って


祇王寺入口


祇王寺


《祇王寺(往生寺)
往生院祇王寺と号する真言宗の寺である。
寺伝によれば、この地は、平安時代に、法然上人の弟子、念仏房良鎮が往生院を開創し、後に祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられている。
平家物語によれば、祇王は、平清盛に仕えた白拍子であったが、仏御前の出現により清盛の心が離れてしまったので、母刀自(とじ)、妹祇女と共に出家し、当地に移り住んだ。
後には、仏御前も加わり、念仏三昧の余生を送ったと伝えられている。
現在の本堂は、明治28年(1895)に再建されたもので、堂内には、本尊大日如来像をはじめ、平清盛と祇王ら4人の尼僧像を安置している。
境内には、祇王姉妹等の墓と伝える宝篋印塔(ほうきょういんとう)及び平清盛の供養塔などがある。》


滝口寺


《もと良鎮上人の開祖にかかる往生院の子院で、三宝寺と称し、浄土宗に属したが、明治維新の際、廃絶してしまった。
かつて三宝寺には、滝口入道と横笛の悲恋物語が伝えられていたところから、滝口寺と呼ばれていた。
近年、有志によって庵室が建てられ、清涼寺内の史跡となって甦った。
本堂には、三宝寺の遺物である滝口入道と横笛の木像を安置している。
滝口入道は、名を斎藤時頼といい、宮中の警衛に当る滝口の武士であったが、建礼門院の雑仕女横笛を見染めて恋に陥った。
しかし、彼の父は、その恋を許さず、そのため時頼はわずか19歳にして往生院に入り出家したのである。
横笛は、これを聞き往生院を訪ねるが、滝口入道は、修行の妨げと会わず、そのため、横笛は悲しみのあまり大堰川に身を沈めたとも、奈良・法華寺に出家したともいう。
滝口入道は、のち、高野山清浄院に入って高野聖となり、元暦元年(1184)、紀伊勝浦で平維盛入水に立ち会っている。》


檀林寺


《この寺は平安時代の始め嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(786~850)が創立したのに始まる由緒深い寺である。
皇后は容姿美しく帰徳にひいで学芸を愛された。
橘氏の学校として連華精舎を設けたのも皇后である。
そして深く仏教を信仰し嵯峨の地に壮大な寺院を営んだ。
これが檀林寺で官寺となり、塔頭には正金剛院をはじめ12坊をかぞえたといわれる。
皇后は当時来朝した中国の僧義空を先生として、この寺で禅が唱えられた始めである。
檀林寺こそは嵯峨陵として下六丁峠にある。
本堂は日本仏教の伝統を十分生かして構成されている。
本堂内と宝物館である霊宝館には皇后のゆかりの品を始め日本中国の仏教美術の数々があり、往時の檀林寺をしのぶよすがとしている。》


文の流れに違和感がありますが…


《 》内は立札やパンフなどより


つづきます。


撮影:2010年5月1日