過去旅*神戸から

またリアル旅できるといいな

*嵐山*過ぎ去りしロマンを訪ねて-小倉池・化野コース⑤

『嵯峨野』


『このあたりから小倉山の麓は嵯峨野と呼ばれます。
大河内山荘を北上していくと、この地ならではの情感漂う寺院が並びます。
紅葉の名所・常寂光寺、芭蕉の門下である向井去来が晩年を過ごした落柿舎、天台宗の古刹・二尊院、平家物語の挿話にゆかりの深い滝口寺など、どこを訪ねても見どころが多いところです。』


さがの人形の家


八体地蔵


ここから『嵯峨野鳥居本伝統的建造物群保存地区』に入ります。


『さらに北へ向こうと八体地蔵のある三差路から嵯峨野鳥居本伝統的建造物群保存地区に指定されている町並みがつづきます。
このあたりは、格子を細かくしたむしこ窓や京格子などを設けた町家風の建物がつづきます。
奥嵯峨の美しい自然と一体となって、趣のある風景が楽しめます。
その道沿いのおつけもの店や土産物産店をのぞきながら、さらに北西へ歩を進めると、化野念仏寺に出ます。』


『化野念仏寺』


『吉田兼好が「徒然草」にも書いた化野は、あたり一面に無数の無縁仏が放置されていた葬送地。
弘法大師・空海が如来寺を建てて荒んだ光景を一掃し、のちに法然上人が念仏道場を開いて念仏寺と名を改めたところです。
境内には、出土した石仏や石塔が約1万体。
死後の世界を思わせるような静けさに満ちています。
毎年8月23~24日に行われる『千灯供養』では石仏にロウソクが灯され、幻想的な風景が夏の夜空の下に浮かび上がります。』


《華西山東漸院(かさいざんとうぜんいん)と号する浄土宗の寺で、境内には付近から出土した多数の石塔や石仏が立ち並んでいる。
化野は古くから鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)とともに葬地として知られ
「誰とても とまるべきかは あだし野の 草の葉ごとに すばる白露」
という西行の歌にもあるように「化野の露」は、人生の無常の象徴として和歌などで広く使われている。
寺伝によれば、弘仁(こうにん)年間(810~824)に、空海上人がこの地に葬られた人々を追善するため、小倉山寄りを金剛界(こんごうかい)、曼荼羅山(まんだらやま)寄り胎蔵界(たいぞうかい)と見立てて千本の石仏を埋め、中間を流れる曼荼羅川の河原に五智如来(ごちにょらい)の石仏を立て、一宇を建立して五智如来寺と称したのが始まりといわれている。
当初は真言宗であったが、鎌倉時代の初期に法然上人の常念仏道場となり浄土宗に改められ、念仏寺と呼ばれるようになった。
正徳2年(1712)に寂道上人が再建したといわれている本堂には、本尊の阿弥陀如来坐像が安置されている。
毎年8月23,24日に行われる「千灯供養」では、八千体にも及ぶ無縁の石仏像に灯が供えられ、多くの参拝者でにぎわう。》


来た道を戻り、再び八体地蔵の三差路を東へ進みます。


慈眼堂(中院観音)


《清凉寺から西へのびる この前の道は愛宕道で、両側の一帯が中院である。
12世紀の末、藤原定家(1162~1241)は中院に山荘を構え、嵯峨の自然を愛して しばしばこの地を訪れた。
慈眼堂の本尊である「木造千手観音立像」は、付属する古文書によると藤原定家の念持仏で、定家の没後、子の為家(1198~1275)が伝領し、為家からこの地の人々に与えられたものと伝え、長くこの地の豪農浜松屋善助屋敷内の堂に祀られていた。
像は寄木造り、漆箔(しっぱく)、彫眼の技法によって制作されており、もの静かな面相と程よい肉身に、小づくりの脇手を配している。
保存状態は良く、天衣(てんね)の体から遊離した部分や、微細な脇手持物(じもつ)の一部まで残っている。
本像は、仁治2年(1241)八十歳で亡くなった藤原定家の念持仏とする伝承にふさわしく、12世紀後半の様風を伝えるもので、鎌倉時代初期(12世紀末~13世紀初頭)における藤原風の美作として貴重なものであり、昭和60年6月1日京都市指定有形文化財に指定された。
なお、慈眼堂では中院の人々が毎年正月14日の夜から15日の日出まで、「日待(ひまち)」の行事を行い、また、定家、為家の法要も営んでいる。》


宝篋院


《善入山と号する臨済宗の寺である。
当寺は、平安時代に白河天皇により創建され、当初、善入寺と称した。
南北朝時代に夢窓疎石の高弟、黙庵(もくあん)が入寺し、室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)の保護を得て、伽藍が復興された。
更に、義詮の没後、その院号宝篋院に因んで現在の寺名に改められた。
以後、足利氏歴代の崇敬を得て栄えたが、室町幕府の衰亡と共に衰微していった。
現在の堂宇は、明治時代以降に再興されたもので、本堂には、十一面千手観世音菩薩を安置している。
境内には、貞和4年(正平3,1348)、四条畷の合戦で戦死した楠正行(正成の子)の首塚と伝えられる。
五輪石塔及び義詮の墓と伝えられる三層石塔がある》


『清凉寺』


『なつかしいおもちゃがいっぱいの想い出博物館に寄り、東に行くと清凉寺。
ここは、かつて、光源氏のモデルと伝えられる嵯峨天皇の皇子、源融(みなもとのとおる)の山荘があったところです。
嵯峨釈迦堂の名で知られ、清凉寺式と呼ばれる国宝釈迦如来像が安置されています。
3月15日には京都の三大火祭に数えられる「お松明」、4月中旬には壬生狂言と並ぶ『嵯峨大念仏狂言』が行われ、近辺はもとより全国から観光客が集まります。』


『 』内 文章は当時のまま記載のため、今のものと異なります。


多宝塔


本堂(釈迦堂)


《棲霞観(せいかかん)跡(清凉寺)
嵯峨天皇皇子で皇族賜姓の源融(822~895)が、9世紀後半に嵯峨に営んだ山荘。
融は晩年に写経や造仏の着手したが業なかばで他界したので、子どもたちが完成させて棲(栖)霞寺とした。
永延元年(987)、奝然(ちょうねん)は宋より請来した釈迦如来像ほかを棲霞寺境内に安置し、宋の五台山清凉寺に倣(なら)った寺院の建立を目指したが果たせず、遺志を継いだ弟子によって棲霞寺の一郭に釈迦堂として発足したのが清凉寺である。
かつて棲霞寺にあった阿弥陀三尊像(国宝)は現在、清凉寺の霊宝館に安置されている。
「源氏物語・松風」に、光源氏が造営した「嵯峨の御堂」は大覚寺の南に所在したとあり、棲霞寺の場所と一致する。
河原院が六条院のモデルということと共に、源融が光源氏のモデルとされるゆえんである。》


阿弥陀堂


《 》内 立札もしくはパンフより


つづきます。


撮影:2010年5月1日